1. 赴任の経緯
第一教学楼
正面に見える古い形の建物が校舎の主流でした。これは宿舎(外賓楼)からの眺め。

 上海師範大学での生活をリポートしようかと具体的に考え始めてから既に数ヶ月。何から話し始めたらよいか迷いに迷い、ただ時間だけが無為に過ぎて行く。いつまで経っても決められない。結局、この大学へ赴任することになった経緯から始めるのが一番自然という、ごく平凡な結論に。

 前に私、江蘇省J市政府へ教えに行っています(J市滞在記参照)。そこを紹介して下さったのがNHK日本語セミナーのH先生。そのH先生から「今度は上海の大学へ行きませんか」と声が掛かった。本当だろうか?と耳を疑いました。もし本当に行けるのなら、それこそ女房を質に置いてでも行きたい。

 J市では初級と中級(と言っているが、実は初級のUレベル)を教えました。生徒はみんな、何らかの形で日本に関わりがある人達。少数ながら既に日本に行くと決まっている人もいた。ですから概して熱心ではありましたが、みんな社会人で職業も違い、年齢、学歴にも差がある。ということは理解力のレベルにおいても差があるということ。これは教える側にとっては非常に負担が重い。かなり苦労しました。どうせ教えるのならば、若くてレベルが揃っているクラスを教えたい。しかし、高校や大学の先生にでもならない限りそれは無理というもの。贅沢な望みです。その贅沢が向こうからやって来た。これが喜ばずにいられましょうか。

 11月の下旬だったか12月の上旬だったか、もう正確には覚えていません。H先生に伴われて上海に赴き、上師大日本語科主任U先生の面接を受けました。場所は南京東路を人民広場側に出た所の「新世界」。これはデパートです。その何階かにある喫茶室で。既に履歴書は送ってありますから、面接と言っても簡単なもの。主任は薄緑のジャケットが似合う温厚そうな紳士。名刺には学部長とある。でも、教授とか助教授とかの表示は無い。「おかしいな」と思いましたが、まさか聞くわけにはいかない。これは後でわかったことですが、学部長なんて真っ赤な嘘。地位詐称もいいとこ。本当の肩書は主任。当時は助教授でも何でもないペイペイの教師でした。

 その場での結論は「私は結構だと思いますが、(あなたは)学校の教師出身ではないので、上の許可が得られるかどうか分らない。許可が下りたら連絡します」とのこと。ここで初めて知ったこと。中国では中学・高校の国語教師の前歴があれば殆ど無条件で(日本語教師として)採用されるのだそうです。日本語教育能力検定試験合格というのはまだ認知されていない感じでした。

 中国の新学期は9月から始まります。殆どの諸外国がそうで、4月から始まる日本は例外。で、もし採用となったら2月から始まる後期から教えてくれとのこと。中間からです。それは何故かと言うと、前任の方が病気で倒れ辞任された。私はその補充なのですね。私が行くまでに2年という空白はあるものの、J市の場合も前任者は帰国後5日で亡くなっています。私は縁起は担がない。でも正直な話、病気で辞めた人の後を継ぐのが二回も続くと、あまりいい気持ちはしない。しかし、どうも上の話からすると、通常なら私のような銀行員出身という(中国の基準では)非主流の者が大学で採用されるのは難しいらしい。すると前任の方には本当に申し訳ないけれど、その方の突然の辞任が私に幸運をもたらしたことになる。U主任にしてみれば時間掛けて後任を探している暇はない。取りあえず使えそうな人間なら、それで間に合わせるしかないわけですから。

 年末になって、上師大外事処から「写真を9枚送れ」とEメールで言って来ました。英文です。採用するとは書いてない。なんだか分らない。これからどこかへ採用申請書を出すのに必要なのかな? と首を捻りつつ、写真を送りました。折り返し専家証が送られてきた。よく見ると国家専家局発行だ。ビザ申請用ですね。肝心のU先生からは何も言ってこない。そして「到着日知らされたし」とまた外事処からEメールが来た。これはどうも採用になったようだな。そこでU先生宛に「宿舎にはInternet環境がありますか」と葉書で問い合わせた。葉書を読んだらEメールでご返事いただきたい。しかし、何の返事も来ない。梨の礫。

 面接をして上部に採用申請したのは主任です。ならばいくら機構上外国人教師の管轄は外事処だとしても、採用が決まったなら決まったでその旨主任から言ってくるのが筋じゃないのか。初っ鼻からこのU主任には首を捻らされました。

  ともあれ2月某日。雨の夕刻虹橋空港着。U主任の出迎えを受け車で上師大へ。車中U主任、「今度はこちらへ曲がります」。「もう少しで着きます」と大層丁重で、こちらの問い合わせを無視した人とはとても思えない。何だか奇妙な感じでした。
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