3. 教室とクラス
外賓楼から北東方向を見る
外国語学院の校舎は右上隅に見える複数の低層棟。その左に屹立している茶と白のビルは人文学院。

 翌朝8時前、指定された校舎の前へ行きました。15分もあれば十分と計算して7時45分に出たのですが、着いたら8時ギリギリ。外賓楼の自室の窓から見える所なのに、意外に時間が掛かった。そのわけは後でお話しします。U主任は既に来ていて、彼に「早く早く」と急き立てられ、2階の教室へ。入ってビックリ。学生がビッチリ座っていて、その学生の殆どが女子なんです。アイヤー !

 U主任は型通りに私を紹介し、「私もクラスがありますから」とそそくさと立ち去った。ここには教壇があり、その上に机があります。教壇に立つと前の学生を足元に見下ろす感じになる。最後列の席も壁際にくっついている。窮屈な教室ですね。これでは机を幾つかの島状にしてグループ討論形式の授業などは出来そうもない。

 私から簡単に自己紹介。昨日の打ち合わせのときに名簿をもらっていますから、それを元に一人一人に自己紹介をさせます。話し方でどの程度の学力かある程度把握できます。新3年生ということは、過去2年間日本語を勉強したということ。それだけに、殆どの学生がまずまずの出来。一人一人に出身地の他、年齢も言わせました。そうしたら一人の学生が自分の番の時、「先生。女性に年齢を聞くのは失礼だと思います」と言った。一見ボーイッシュな子で、それが「女性に・・」というのが何ともおかしくて思わず笑っちゃいました。外国語学院日本語科3年2班。30名。その中に男子はなんと3人しかいない。片隅に固まって何だか肩身が狭そうに見えました。

 次の時間は3年1班。予め聞いていた教室に行った。なんとU主任は来ていない。まぁ何て事でしょうか。ちょっと信じられない。主任である以上は、何はさておいても、担当させるクラスと同僚教師くらいまでは直に紹介するのが筋ではないか。まぁしかし、そこに来ていない以上は言ってもしょうがない。2班と同じように私と学生の自己紹介で一課業終わらせます。こちらは全部で29名。そして男子が5名いる。そのせいか、2班に比べ少しくすんだ感じを受けた。もう一つ。学生の目の輝き。2班の方が全体に輝いていた。こういう印象ってバカになりません。何かを暗示しているのです。それはまた追々とお話しします。

 年齢は殆どが21歳前後。稀に22歳がいて、24歳(男子)が一人。出身地は大半が上海。地方出身者は少数。その少数は聞いてみると、文革時、地方に知識青年として下放され、その地で結婚した人の子女なのです。親(父親であったり母親であったり)が下放前居住していた都会の大学へその子女を進学させる権利が認められているのだとか。親は今更戻れない。せめて子供を都会で・・・と政府に要求し、それが通ったのだそう。一番遠い子はハルピンからでした。なお子供が複数の場合、権利は一人だけと聞いたように記憶しています。

 さて前に戻って、なぜ教室まで予想以上に時間が掛かったか。一つはエレベーター。宿舎に一基しかありませんから、案外待時間が長い。階段を下りた方が早いかもしれない。次ぎに正門前の信号が長い。

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 実は上師大のキャンパスは道路で二分されている。大きい方が西部。小さい方が東部。外賓楼は西部にあり、正門を出て桂林路を横断し、東部の最深部にある外国語学院まで歩く。その桂林路横断に案外時間が掛かるのです。大学の前には43番バスの始発站があります。これは二階バスです。これが繁華街徐家匯を経由して南浦大橋まで走っている。他に郊外の辛庄方面へ走るバスもあって、この桂林路は割に交通量が多いのです。

 元はこの辺一帯は青幇だったかな? 戦前上海の暗黒街を支配していた親分の妾の邸だったのだそう。上師大キャンパスの北方寄りに桂林公園というのがある。そこが邸宅部分で、南の上師大にかけてが庭園だったのだとか。その一部を上師大とし、残りは自然公園として残してある。いやはや、恐れ入谷の鬼子母神。妾もここまで来ると凄い。私が言う「この辺一帯」の面積たるや皇居前広場の何倍もあるんですから。「粋な黒塀見越しの松」なんて妾宅はこっちへ持って来たら厠所にもならない。

 そして時移り、都市化が進んだ。道路を通す必要があって、大学だろうが何だろうが構うこたぁない・・・と当局者が言ったかどうかは知りませんが、市がキャンパスを横切る道路(桂林路)を造ったのだそうです。しかしその話はどうかな?  元々道路はあった。その両脇に大学の敷地を取ったのかも知れない。いずれにせよ、キャンパスは相当広大です。具体的に言うと、東大本郷キャンパスより少し小さいかな? くらいの感じです。
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