24. 揚 州-1 揚子江のフェリー 揚子江を渡るフェリー。上り下りの河船の間を巧みに縫って進みます。

 2) 揚州
 揚州は鎮江の対岸です。杭州から発する京杭運河は鎮江で揚子江に出ます。対岸の揚州から再び北京へ向こう。揚州は交通の要衝だったのですね。絹の集散地でもあって、一頃は蘇州を凌ぐ勢いだったらしい。初め、なんか聞いたことがある地名だな・・・と思いました。そうだ。「故人西の方黄鶴楼を辞し 煙霞三月揚州に下る 弧帆の遠影碧空に尽き ただ見る長江の天際に流るるを」だ。誰の詩でしたかね。

 10月10日(土)。R氏の案内で出かけました。天候は曇り。鎮江市の西の外れからフェリーで揚子江を渡る。上海から南京まで橋は無いのです。渡し場はバス、トラック、乗用車の長蛇の列。R氏がフェリーのチケット売り場から戻って来て、「お釣りがないって言うんダヨね」。彼はよくこういう言い方をします。だから誰のことか、咄嗟には判断がつかない。「Oさんがネ」。これも厄介。Oは中国で一番多い姓。周囲には石を投げれば必ず当たるほどOさんがいる。しかし、この場合はすぐ分かりました。チケット売りのことだ。「金の指輪やネックレスでピカピカしているんダヨね」。で、どうしたの? 「要らないって言ってやった。いつもそうなんダヨ。これだから中国はダメなんだ」。係がお釣りをくすね、私腹を肥やしているということ。蘇州の小Oのことを言おうかと思いましたが、それは止めておいた。頭の黒い鼠がそこにもここにもいるんです。

 案外早くフェリーに乗れました。フェリーはそんなに大きくはありませんが、3隻でピストン輸送しています。独特な形をした河船が船団を組んで下って行く。何か重い物を積んでいるのでしょう。舷側が水面すれすれ。意外に交通量が多いです。揚子江は今でも中国の大動脈なんだと、これは実感です。河船の写真はこちら

 僅か20分かそこらで対岸に到着。瓜州という土地らしい。河幅は案外狭かったですね。目測で2キロ足らず。対岸が見えないというのは河口の話なんですね。車は坦々とした片側一車線の道をひたすら揚州に向かって走る。道の両側には水杉の並木。これがどこまでも続く。

揚州への並木道
 木そのものはどうということもない木です。けれどもこれだけ長く、しかも少しの切れ目もなしに続くと、狭い島国育ちは手もなく感激してしまいます。もしかすると、東海道の松並木を往来した先祖の遺伝子のせいかもしれません。ともあれ思いのほか揚州市街は揚子江から遠かった。20キロは走ったような気がします。

 揚州の街区は道が広く、新しい建物が多い。「随分きれいになったね。昔はこんなじゃなかったんダヨ」。R氏は「ダヨ」と「・・チャッタ」が好き。ここへは8年ぶりに来た。見違えるようだ。これは絶対、江沢民のお陰だ。J市も偉い人が出なくちゃダメだなァ。彼はこれを繰り返し言う。江沢民主席は揚州の出身だから・・ということです。あれっ! 江主席は上海じゃないの? いや生まれは揚州なのよ。主席自身は何も言わなくても、周囲が気を遣って出身地に予算を配分するのよ。上海も同じ、とR氏は言う。

 まず大明寺へ。伽藍はちょっとした丘の上にあり、周囲を圧する九重塔以外は平凡な佇まい。本堂に鑑真和上の木像がありました。それで想い出した。奈良唐招醍寺が和上の木像を里帰りさせようとしていると以前、新聞で読んだ記憶があります。ここは鑑真さんの最後の船出前に居たお寺なのですね。脇堂に、日本への何回もの渡航失敗の航路図もありました。それ以外には見るべき物は何もありません。だから唐招醍寺が木像を寄贈したに違いない。もう一つ。九重塔ですが、これは新築でしかもコンクリート製。周囲の石畳は歩行に危険なほど波を打っています。よほど急いで作ったのでしょう。中国近代化の危うさを目の当たりに見る思いでした。このお寺では客寄せの高い塔よりも、山門に至る幅の広い、参詣者の歩みで角が丸くなった、ゆったりした上りの石段の方が印象に残りました。どこか子供の頃登った久能山の石段に似ていました。

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