34. 密 告  それがいつだったか、記録してないのでハッキリしません。おそらく11月の下旬ではなかったか。いつものように授業準備をして、一旦夕食に帰ろうかと廊下に出たところでR氏に呼び止められました。ちょっと話があると言う。別室で聞いた話は以下のとおり。

 (R氏)先生は中級の授業で文革の話をしましたか? 先生が政治的な話をしたと、O先生のところへ言って来た生徒がいます。今日会議が召集されて、その結果、私から先生に絶対に政治の話はしないようにお願いしてくれ、ということになったのでお話しします。O先生は政治問題には凄く神経質なのです。
 (私)文革に触れたことは確かだけど、政治的な意味で言ったんじゃないんだけどなぁ。あれが政治的な話になるのかなぁ。

 事の次第は次のとおりです。
 日本を出るとき、授業に使えるかもしれないと考え、中国関連の新聞記事を切り抜いて持参した。既に書いたことですが、中級の生徒の中に「テキストは要らない。文法の勉強も不要。会話だけ教えてほしい」という連中がいます。連中の言う会話能力とは、具体的にどういう能力なのか。おそらく、日常的な会話の聞き取りと発話ができるようにしてくれということなのでしょう。新日本語の基礎のUは、やや技術研修生向きに偏っている面はあるものの、立派な日常会話のテキストになっています。しかも日本語教育の基準からすれば、まだこれは初級のレベルです。文句など言わずにしっかり勉強しなくてはならないのに、そんなの不要とは生意気です。また、個人教授ではないのだから、文句を言う個々の生徒の個々のニーズに一々対応することは到底不可能。しかしそんなに言うなら、テキストを離れて現実生活に密着した日本語をやってみますか? ということで、新聞記事を読むことにしました。

 最初は、密航者が貨物船のコンテナの中で死んでいたという記事を取り上げました。これは読むだけ。中国人にとっては恥ずかしいことではないか?という配慮からです。次に、長江の洪水被害に関する記事を使いました。ところが、密航者の記事でもそうでしたが、前もって下調べをしてくるように言ってあるのに、満足に読めない。ダメじゃないかと叱ると、一見簡単に見えるので(漢字は眺めるだけでだいたい意味が分かるから)つい予習をさぼるのだと言いわけをする。一方、私の方にも迂闊な点がありました。辞書を引けば読みは分かると簡単に考えていた。しかしよく考えてみるとそうではないのですね。普通の日語辞典は「よみ」で引く。「よみ」が分からないのだから引けるわけがない。漢和辞典が必要なのです。しかしそれを持っている生徒はいません。仕方がないから、ひっかかる個所は口添えしながら進めて行きました。

 記事の中に「武漢工業地帯を守るために、上流の○○県で堤防を切った。それからもう1か月以上たつのに、未だ水が引かない。死者は当局の公表では15名ということだが、実際はもっと多いのではないか」という記述があった。これが問題の発端です。このときまでに、日本から持って来た「中国革命を走り抜けたアウトローたち」という本を読み終わっていました。この本は簡単に言うと、清末以降の内乱史です。動乱の中で勃興し滅亡或は殺された軍閥や土匪、宗教一揆、自衛団といったアウトローについて詳しく書かれています。義和団も紅槍会も青幇(チンパン)も紅幇(ホンパン)も国民党軍も共産党軍も、一切合財登場します。

 印象に残ったことは沢山ありますが、三つだけ上げます。最も強烈だったのは飢饉のとき、自分の子と他人の子を交換して食べるということ。これは日本でも天明の大飢饉のときにあったそうですが。次に、共産党の初期の時代。ある地方の党組織では眼鏡をかけている、字が読めるというだけでスパイとして処刑され、しまいには字が読み書きできる者が一人もいなくなった、ということ。元は猜疑心ですね。後のカンボジァのポルポトの原型がここにあります。第三に、争乱や飢饉が起こるとその犠牲者の数がべら棒である、ということ。百万単位で人が死ぬ。国土の広さ、天災の深刻さ、内乱の規模、どれをとっても日本なんかとは比べものにならないから、犠牲者数もそれに比例するということでしょうか。中国で生水が飲めないのは、何千年にもわたって山野に放置された数十億人の死体で自然が汚染されているからだと書いてあります。その真偽はともかく、この本を読んでいると、中国では人命は風に舞う砂塵のように儚いものに思えます。

 本題に戻ります。「堤防を(意図的に)切った」という個所で、その本に過去の類似例の記述があったのを思い出しました。国民党軍が日本軍の侵攻を阻止すべく、黄河の花園口という所で意図的に堤防を切った。そのために死んだ住民が三十万人。その後3年に及んだ冠水のために飢饉が起きて、その被害者が数百万人に達した。これは全部が死者ということではなく、家や土地を失って流民になったということですが、いくら自衛戦争の手段とはいえ、ひどいことをするものです。そのことを、生徒たちに「知っているか?」と問いかけました。だれ一人知らない。それではと、次々とヒントを繰り出した。蒋介石。国民党。中国東北部からの侵攻。それは誰?

 辛うじて蒋介石について、「台湾の人だ」と謝という女性の生徒が言った。他のことは
誰も何も知らない。自国の歴史について、みんなあまりにも無知なことに驚いた。それで私が簡単に上記の説明をして、「みんな自分の国の歴史を知らないねぇ」と一言言った。後から考えると、これが生徒たちを刺激したのですね。更に続けて「今回の洪水の死者は少ないけど、過去、中国では何か起きたときの死者の数は日本とは比較にならないくらい多い。文革のとき何人死んだか知っていますか?」と聞いた。誰も答えないから「2千万人と言われています。これは日中戦争で死んだ人の数よりも多い」と言った。そうしたら生徒の半分位が、「日本軍は南京で30万人殺した」と気色ばんで食ってかかってきた。意表を突かれました。一瞬にして猫が虎に変わった感じがしました。みんな歴史を知らないと言われたのに腹を立てたのでしょう。

 「それについては済まないことだと思っている。しかし、今先生が言っていることは、[みんなは歴史を知らな過ぎる]。それから、[中国人が同じ中国人をたくさん殺す]ということ。文革なんてつい最近のことでしょ。何で犠牲者数を知らないの?」と言ったら、数人が一斉にいろいろなことを言った。一人は、「(加害者が)中国人ならいいんだ。日本人がしたことは許せない」。一人は、「まだ子供だったから(詳しいことは)知らない」。張は「文革は忘れたい不幸な歴史なんです」と言った。彼は普段はフニャフニャしているのに、この一言は妙に説得力があった。そうか。そうかも知れん。南京事件についてはまた改めて・・・ということにして、話題を変えました。以上のやりとりはせいぜい時間にして10分。これだけのことですから、私としては政治問題に触れたという意識は全くありません。

(私) で、O先生のところに言って来たのは誰なの?
(R氏) いや、それは知りません。
(私) 何で密告なんかするんだろう?
(R氏) それは党員になりたいからでしょう。点数稼ぎですよ。
(私) 今どき党員になりたい奴なんているの?
(R氏) そりゃぁいますよ。党員にならなければ上の地位に就けない。上の地位に就かなけれ ば金が入ってこないんですから。
(私)そうすると密告した奴は公務員だね。おそらく張だな。
(R氏) それは私は知りませんけどね。
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