43. 終 章 床屋さん。お客は女性です。

 書き漏らしたこと 珍しかったこと、楽しかったことは沢山ありますが、それを全部書くことはできません。二つだけ選んで書きます。

 1)床屋 町を歩いてすぐ気がつくこと。間口1〜2間の小さい店が多い。業種としては美容・理髪と小吃店(食堂)が一際目立ちます。需要サイドの事情について言えば、前者のことは分からない。後者は「共稼ぎ所帯が多い=外食する」せいだろうと思います。一方、供給サイドの事情としては、これはもう下崗(失業者)の増加だけで十分説明できます。これらの商売は簡単に開業できますから。床屋は椅子とバリカンがあれば歩道の上でも開業できるし、小吃店はテントと鍋釜があれば路上でできる。実際、そういう営業を随分見ました。

 私は市政府の中の床屋に通いました。最初はおっかなびっくり。やがてびっくり。丁寧(特に顔剃り)で安いのです。洗髪も含めて5元(邦貨75円)。秋までは整髪の為に行きましたが、冬は洗髪だけの為に3日に1回くらい通いました。宿で頭を洗うと、何しろバスルームが隙間だらけなので、寒くて風邪を引くのです。洗髪だけでも5元払いました。本当はもっと安いのです。だけどお釣りの小銭を貰うと邪魔くさい。なのでこちらからそうしました。そのせいか私が行くと、掛かりつけの小陳はいつも大喜び。この床屋には女性もよく来ていましたね。それから髪を染める男が多いのには驚きました。中国人の男は日本人よりおしゃれなのかもしれない。兎に角床屋に関する限り中国は天国、極楽です。

 2)鍼灸 これは行く前から期待していました。最初は中医病院。途中ひどくなってからはJ市医学院付属病院に変更。中医病院より近くもあったし、日本語を話せる鍼灸医が二人もいたからです。二人とも日本の友好提携市に行 ったことがあり、先輩の李先生は3年間滞在したとかで日本の新聞が読める。後輩のニ(ニンベンに児)先生は6か月だけだったとかで、日本語は今一つ。それが残念で私の中級クラスに中途入学して来ました。

 
言葉が通じるというのはいいものです。どこがどのように痛いと説明すると相手が理解してくれる。ただ、私の腰痛は一筋縄ではいかなくて、随分通って軽くはなったものの、結局根治はしなかったですね。これを書いている今も少し痛いです。治療費は1回6元。それも最初だけで、すぐに要らないと受け取らなくなった。先生からは貰えないと言うのです。仕方がないから、手に入る日本の新聞・雑誌をせっせと持って行きました。写真家A氏ご夫妻もお連れして、「効くねぇ」と喜んでいただけました。

 同じ鍼灸科にもう一人、滞日経験のある女医さんがいました。ご主人がここの薬学部の教授で、熊本大学に留学し博士号を取ったのだという。フル帯同ではなかったらしく日本語は少ししか通じませんでしたが、こんな地方の医大でも日本と関係が深いのには驚きました。またこの鍼灸科、医師が多くて全員が座るだけの机がない。いつも患者より医師の方が多い感じでした。公営だからそれでやっていけるんですね。

  <まとめ>
 私は中国には学生時代から強い関心を持っていました。中国関係の本は非専門家としては沢山読んでいる方だと思います。あの麻のように乱れていた大国を統一したのですから、中国共産党と毛沢東は掛値なしに偉いと尊敬していました。しかし、文革以降「少しおかしいナ」と感じるようになり、最近では新聞でも拝金主義・汚職がはびこっていると報道されていて、生まれ変わったのは一時のことで、また元の中国に戻ったようだと認識を改めておりました。

 行って見てどうだったか。報道されていることを、一々そのとおりと確認しに行ったようなものです。人民の物は針一本盗まないという党員の規律はもうどこにもありません。表向き厳正を装い、裏では金蔓探しに血眼なのです。固いことを言えば、これでは明るい未来を信じて革命の為に命を捨てた人たちは浮かばれない。そう思います。

 生活者としての感想を言うならば、気に食わないことは多々ありましたけれど、トータルでは中国は面白かったですね。何が面白かったか。これは挙げたら切りがない。一言で言えば中国(人)は歯応えがあります。フィリピンとはその点で大きく違う。そう言っては何ですが、フィリピン人は根性がない。そこへいくと、中国人はよくも悪くも逞しい。日本語学習熱も中国の方がずっと高い。勢い教える側も熱心になります。風邪で声が十分に出なくても、私は一日たりとも休みませんでした。日本人とはどういうものか、行動で見せてやりたかったのです。成果については自分では十分とは思っていません。けれども先方からは高く評価されたようでした。

 中国人一般は日本(人)をどう見ているのか。やはり「科学技術が進歩している。戦後僅かの間に発展を遂げた力の源泉は、刻苦精励の精神である」というところです。本文中にも書きましたとおり、日本の工業製品に対する信頼は絶大です。日本人に対する敬意はそこから来ている。技術や工業から離れると、日本人は好戦的で野蛮な人種ではないかという話になる。それは現在の日本を知らないから。そして中国政府のその種の宣伝も、誤解を助長しています。

 これからどうして行けばいいのか。やはり日本は今までどおり或は今まで以上に、高い工業水準を維持しなければなりません。それが出来ている限り、日本人が軽蔑されたり、国として没落することはないでしょう。そして、ありのままの日本をもっと中国の若者に見せるようにするべきでしょう。日本政府はもっと中国の若者に門戸を開放すべきです。そうすると種々問題が発生することは分かっています。でも今は「小異を捨てて大同につく」べき。国家百年の計とはそういうものではないでしょうか。

 政治問題はタブーでしたから、経済・軍事・外交などに関する話はO先生としかしていません。彼と話していると時々、中国人特有の中華思想というのか大国意識を感じることがありました。彼は航空母艦を持とうという声が上がっていると言う。理由はインドが持っているから。子供っぽい発想です。中国が空母を保有した場合の周辺諸国に及ぼす影響など何も考えていない。中国が長い海岸線を持つことは事実。しかし、沿岸防衛は陸上基地で十分。また、日本とは異なり資源輸入路即ち船団護衛の必要性は少ない。それを言うならむしろ日本の方が必要性は高い。空母くらい作ろうと思ったら自前で作る能力もある。ただ日本は自制しているのだ、と言ってやりました。

 他にも「幼稚だな」と感じることが何回もありました。例えば、アジア経済危機で各国が経済破綻に直面している。中国は元レートを維持して頑張っている。一人日本だけが他国の危機を余所に有卦に入っている、と言う。中央政府が言うことをその侭言っているのです。そこで、今は昔と違って政治的な国境はあるが、経済的国境はない。アジア諸国に一番投資し借款も与えていて、そういう意味で最も深刻な影響を受けているのは日本なんですよ、と言ってやった。彼は「先生は銀行員だったから」と不得要領なことを言って話を止めました。彼はインテリですが自分の頭で考えていない。知識もない。頭の中は金太郎飴で、大方の中国人は大体その程度なんです。

 また彼は、いわゆる歴史認識の話題をよく持ち出しました。中国侵略も南京事件も私がみんな「申し訳ないと思っています」と素直に謝ってしまうものだから、最後に遂に公式謝罪問題を持ち出した。歴代総理大臣は謝罪している筈と言うと、「いや最近韓国にはしたが、中国にはしていない。それでは我々の面子が立たない」と強硬。J市に来てからのことは私は知らない。「しかし援助も借款もできることは全部している。我々は十分以上のことをしている筈」と言うと、「中国は賠償は取らなかった」と言う。当然だと言いたいのでしょう。一瞬、歴史上の朝貢外交を思いました。朝貢する日本か。いずれにせよ、口では中国は遅れていると慨嘆しながら、内心では日本ごときが・・と思っているようでした。これはそのまま中国人一般の気分ではないか。

  これから先、中国人とつきあうのに一番大切なこと。それは共通の知識を持つこと。一般日本人、特に若い人は中国の歴史・現状を知らない。一方中国人は、外国の事情を知らない。特にビジネスの国際基準、常識を知らない。日本に関して言えば、非常に偏った教育をされている。だから、日本人は好戦的ですぐ侵略する。要注意の国と考えている。中国人が国際常識を持つ為には、共産党が変わらなければダメですね。共産党の統治方針は、知らしむべからず寄らしむべし。自分たちに都合のいいことしか教えていない。

 最後に今回の日本語クラス主催者の全体構想をレポートして、この記録を閉じます。

 S処長は、故T先生没後も引き続き日本語クラスをやりたかった。目的は副収入の確保。しかし、日本人教師がいなくてできなかった。一方、R氏は父親が年を取ったので、日本からやむなく帰国した。日本語が得意だから事業として日本語学校を始めたい。しかし彼は、民間人単独ではそれは困難という中国の裏事情を熟知している。そこでS処長に合作を申し入れた。S処長はR氏を最初信用しなかった。R氏の話では、申し入れに対して長く反応がなかったそうです。

 そこでR氏は、S処長を日本視察に招待した。自分がG県で(警察に通訳として協力したので)どれだけ信用があるかを見せれば、S処長も気が変わると踏んだのです。実際、彼は一般外国人に対する一番高レベルの入国資格を持っています。結果は予想どおり。G県I氏の協力もあり一流ホテル宿泊などで歓待され、R氏を信用するに至った。S処長はG県のあと、旧交を暖めるべく鎌倉市へ回った。NHK・HD先生は派遣教師候補を二人(HA氏、私)探し出し、鎌倉でS処長に紹介した。

 R氏は事業開始に先立ち、赤字は自分が負担すると申し出た。更に、就学または就労1件につき1万5千元の手数料と、就労後、就労者の給料から月3万円の管理費を徴収し、それを分配すること。管理費は日本にプールし年1回S処長が集金に行くことを提案した。S処長にしてみればこんなにいい話はない。このようにして本計画はスタートしたのです。

 私が帰国後の7月末、R氏が来日。我が家にも来訪し1泊しました。その後の話を聞いて驚いた。日本語クラスは成立しなかったという話でしたが、実は成立していて、K先生が教えているという。生徒の数が私のときより少ないので、教師の宿代が出ない。K先生は既にJ市で仕事(昼間)があり宿もある。夜間のクラスなら教えられるし、宿代は要らない。それがいい。その線で行こうということで、私の後任候補HA氏には「クラス不成立」と言って来たというのが事の真相。生徒は減ったが宿代の負担がない分、Sさんたちの取り分も増え、彼らはご機嫌だとのこと。

 なお、私の教えたクラスからのR氏斡旋による就労は、ただの1件も成立しなかったとのこと。R氏はタイミングが悪かったんですと説明した。景気が悪くて求人がなかったということでしょう。もし何人か日本に送り込めていたら、おそらく私の後のクラスも参加者が多かったに違いありません。                         (終:1999年8月27日記)

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