9. 南京-2 侵華日軍大屠殺紀念堂 侵華日軍南京大屠殺紀念堂

  さて月が変わって9月1日。事務所に出たらスタッフがこれから南京に行くと言う。なんでも教材用に買ったカセットテープが不良品なので、それを取り換えに行くのだとか。車で行くというから便乗させて貰うことにした。Sさんが「何しに行くか」と問う。見物だよ。そしたら、小Xは休みなので小Oを付けてよこしました。

 南京は市街入口の門がいい。重厚で風格があります。市内も道路は広いし、街路樹が鬱蒼としていて感じがいい。J市とはまるで格が違う。途中で他のスタッフと別れ、小Oと二人タクシーを拾い南京大虐殺記念堂に向かう。この時点ではまだ新書「南京事件」は読んでいません。しかし、そういうものがあるということは知っていました。

 着いてみたら、「侵華日軍南京大屠殺紀念堂」が正式な名称でした。事件当時この辺りは湿地帯だったようです。周囲は高層建物など見えない殺風景な場末の感じがする所。入口の塔に「1937.12.131938.1」と数字が。殺戮が行われたとされる期間ですね。始まりは分かっているが、終わりは不明と言っているわけです。入った所は広い庭。歩道、階段、壁は白い大理石。余白は白い玉石。白を基調としています。半地下の展示室に入ると、日本軍の侵攻ルート図や地域別犠牲者数の表、犠牲者の写真その他諸々の資料が。最も目を引くのは累々たる白骨の層です。地中に埋められたそのままの姿。攻略後、助命を約束して投降させた捕虜を後方へ送ろうとしたところ、後方司令部が「現地で処理しろ」と指示した。現地部隊はやむなくまとめて銃殺した。多分ここがその場所なんでしょう。だからここに紀念堂を建てた。構築物全体の基調の白は、白骨のイメージです。

 この捕虜大量銃殺は戦後日本の新聞でも報道されており、事実として認められています。後方司令部の「現地で処理せよ」という理由は確か「輸送する手段がない」ということでした。それに加え、多分捕虜を養うだけの食料もなかったのだと推測されます。そもそも日本軍の食料自体が現地調達でしたから。

 資料には重複が目立ちます。犠牲者は30万人以上だと何回も強調している。率直に言って「その一点にバカにこだわっているな」と感じます。上に書いた投降捕虜は確か2千名ほど。それ以外は中日どちらにも記録がない。今となっては実数は永遠に判明しないでしょう。だから幻の数字が一人歩きして困るわけです。

 展示室の出口に「二度とこういう目に合わない為に中国人民は団結し、外国の侮りを受けないようにしなければならない」と記したパネルがありました。これには唸りましたね。清末以降中国は国内麻の如く乱れ、国家の体を成していなかったから、諸外国にいいように侵略された。今日の国際感覚では侵略は不正義。しかし19世紀末頃までは切り取り強盗は世の習い。隙を見せた方が悪かったのです。そういう意味で、中国側に根源的な問題があったと言える。加害者を非難し懲罰すれば終わる問題ではないと思う。反省を知る中国はさすがに大人です。ただしこちらは加害者側だから、こういうことは口に出して言えません。 

 本筋から外れます。非人道的ということでは原爆投下はどうなのか。あれは明白な国際法違反。日本人は前の大戦について反省しなければならない。しかし同時に、原爆投下の非を永久に声高に鳴らすべきでしょう。「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」という広島の碑文は意味不明。日本語ではこういうのを「非文」と言います。

 もう一つ印象的だったこと。修学旅行でここを参観した日本の高校生の感想文が数件展示されていました。どれも私立高校でした。中国政府はこの半世紀あらゆるメディアを通じて日本軍の暴虐と、これに徹底抗戦して勝利した共産党の偉大さを宣伝してきました。もちろん学校教育でも小学校から教えています。それに引き替え日本では、教科書に侵略の事実を記述することを徹底的に避けてきました。両国の若者の歴史認識を比べた場合、当然その懸隔は甚だしい。今後の日中関係にとってこのことは甚だ不都合です。何よりも事実を知ることが先決です。もっと多くの若者に参観に来て欲しいと思いました。

 参観中、同じく参観の中国人と何度となくすれ違いました。その都度、もし日本人と気がついたらどういう態度に出るだろうかと、内心身構えました。しかし、誰一人私が日本人とは気がつかないようでした。小Oも参観の間何も言わないでいてくれて、それがとても有り難かったですね。

 帰って「大屠殺紀念堂へ行って来た」と言ったら、Sさんは不思議そうな顔をしました。
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