06.08.04 自己評価の違い
上海交通大学正門
上海交通大学正門。江前国家主席の母校の由。私の職場はこのすぐ横にある。本文と写真は全く関係ありません。

 古代人@ただいま湘南です。ちょこっと帰ってきました。

 ナントカの一つ覚えでいつも同じ事ばかり言いますが、日本はいい。静か。空気が埃っぽくない。そしてネットの回線速度が早い。だからストレスが溜まらない。日本人の平均寿命が長いのもむべなるかな。

 今日は少し変わった話です。楽屋話で,「日中自己評価の違い」。

  私の所は民間の日本語学校です。「あいうえお」の初級から中級、日本語能力試験対策講座など、応募者次第で何でもやります。ただし、「何でも」と申しましても、ある程度の人数になれば・・・の話ですが。

 学習者の応募の動機はいろいろ。日本に留学したい。日本人と結婚している。いずれ日本に行くから。日本企業に就職したい。流行だからただ何となく。この「何となく」というのが如何にも上海らしい。それは暇と金がなければ出来ない。若いのにこういう人が上海には結構います。また、親が子供を連れてくるケースも間々ある。これは大体が日本留学志望。親の方が熱心なんです。

 「あいうえお」からやりたいという人については問題ない。何が問題? 実力=クラス分けの判定です。「私はもう初級は必要ない。中級の力がある」と言う人については、本当に申告どおりの実力があるかどうか判定しなければなりません。実力があればいいけれど、無かったら教師や他の生徒が困りますから。

 そこで、用意してある日本語能試4級、3級、2級の問題をやらせる。実力2級と言う人には2級の問題。3級と言う人には3級の問題。で、結果はどうか。これが面白い。今までにタダの一人も、申告どおりの実力があった例しがない。みんな落第。そして恰も申し合わせたかのように、「暫く(日本語から)離れていたから」と言い訳をする。

 日本人だと最近の若い人はどうか知りませんが、大体が「貴方は実力あるから」とか「○○卒ならこれくらいの力あるでしょ」と言われても、「イヤァ私はそんな・・・」と謙遜します。これが中国人の場合、見事に逆なんです。これはどうしてなのか、非常に興味深い問題です。尤も私、今「中国人の場合」 と申しましたが、廈門で教えていたときは生徒からそんな感じは受けなかった。これは「上海人の場合」と言い直すべきかも知れません。でも応募者は地元上海人だけじゃない。安徽省、湖北省など地方出身者も結構いるんですけどね。

 そういういわば経験則を持ちながら、最近のクラス編成で失敗をした。日本語能試1級対策クラスです。最初2級、1級の2クラスを予定していた。で、 2級クラスの応募者が大半だろうと予想していた。この辺が一番層が厚い筈なんです。ところが案に相違して2級の応募者は一人もいない。そんな・・・と 思うんだけれど、一人も現れない。応募は1級クラスばかり。

 ここで本来ならば応募者個々に実力測定試験をするべきだった。従来やってきたんだから。けれども今回はそれを省略した。営業を考えるとそれはやり難いんです。テストして「あなたは1級は無理。2級を受けなさい」と言うと、来なくなる虞れがある。今までがそうでした。実力が無いにも拘わらず、そう言われるとどうも面白くないらしい。半分くらいが「じゃ止めた」になる。

 それともう一つ理由があった。初級とか会話と違い、能試対策ともなると教師は誰でもいいというわけにはいかないんです。文法、読解については一応大学の先生レベルの人を用意しなければならない。それも日本人より中国人の方がいい。余所の日本語学校も殆どがそうです。で、1級、2級の2クラ スを編成するとなると、そういう先生を探す苦労が2倍になる。

  で、「1級を受ける」と言うからには2級3級を狙う連中より力はあるだろうと勝手に決めて、希望者をみんな申告どおりで受け入れた。それで行けるだろうと考えた。しかし、やっぱり問題あった。最初の授業で小手試しに2級の問題をやらせた。何と50%強が合格点に達しない。やはり経験則は正しかったのです。

 人間誰しも上を狙いたい。しかし、Step by stepという言葉がある。「モノ には順序」と言ってもいい。何かに挑戦するとき、まず自分がどの程度かと客観的に評価する事が出発点ではないか。そして、実力の少し上を狙うべきで しょう。ところがどうも、この国の人たちにはそういう感覚がないらしい。自分が欲求すれば即ちそれは可能である。いや、可能にならなければおかしい。 もし失敗したらそれは何か他の悪しき要因が働いたのであって、決して自分のせいではない。そう考える人が多いみたいです。

 何故そうなのか。これが私にもよく分かりません。この国では皆さん自己主張が強い。そうでないと生き残れなかった過去の歴史からの教訓かな?  お断りしておきますが私、それは必ずしも悪いことではないと見ています。 国際社会では押しが強い方が勝ち。日本みたいな控えめな国はいつも割を食う。もっと自己主張してもいいと考えている。でも、そうは言ってもなかなか変われはしませんけれど。諸賢のご意見を伺いたいところです。
 

 昨日の話で書き漏れがありました。文法や読解を中国人に教えるには、日本人より中国人の先生を当てる方がbetterだということ。

 これは日本語教育に多少とも関係した人は先刻ご存じのことで、要するに日本人だと「何故分からないのか」が分からない。子供のときから日本語しゃべっていますから疑問を感じることが少ないのです。それと疑問点を説明するとき、やはり日本語より中国語の方がいい。「中国じゃこう言うじゃない。あれだよ」と。

 これに対して聴解の教師はもう、中国人より日本人の方がいいに決まっています。日本語独特のアクセント、イントネーション、言い回し(省略話法、婉 曲話法)などが分からないと説明できない。例えば「お茶を淹れようか」に対 して、「いいねぇ」と「私はいいわぁ」がどちらが要で、どちらが不要かを判別する。この場合決め手はほぼイントネーションですが、語調の中に感情が入っている。強いて言えば声に色が着いている。それを分からせなくてはな りません。これは言葉の説明じゃ理解させられない。他の例で演じてみせる。 これが一番。

 ということで聴解は私が担当しているのですが、授業の途中で「(CDの)ナ レーションが分かりますか」と聞くと、「早過ぎて分からない」と答える生徒が可成りいる。CDの吹き込みはプロがやっている。ゆっくり、ハッキリ話しています。単語の意味が分からないならまだしも、これが聴き取れないんじゃ勝負にならない。土俵の外にいるようなものですから。仕事とは言え頭が痛いです。
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