01.05.20. 臨海市

この旅行記は私信を元にしたものです。朱色の部分は友人の質問です。

 こちら暑くなってきました。小生の任期もあと2ヶ月を切った。もう少しの辛抱です。何が辛抱かというと、まず学生が勉強しない。張り合いが無い。第二にやはり食い物に飽きる。ここには酢の物と生ものがないからね。やっぱり寿司食いたくなるね。

> 話しがよくわからない。まず訊きたいのはその長城なるもの、 いつ頃のどの国のものなのか、あるいはその規模からして 朝鮮にあるような人民全部を収容するような山城の残り なのか?? それにしても立派な上り口!

 まず、大体の位置から説明しましょう。上海は揚子江の沖積地上にある。東支那海に突き出している。で、すぐ南は杭州までずっと引っ込んで湾を形成している。これが杭州湾。戦争中はバイアス湾と言ったような気がする。杭州湾のドン詰まりに銭塘江が口を開けていて、これは大潮のときの何て言ったっけ、怒涛が押し寄せて、毎年見物人が巻き込まれて死ぬやつ。あれで有名です。「嘯涛」だったかな?

 この湾の南岸に西から上虞市、紹興市とあり、最後に寧波市がある。寧波市の沖が舟山列島。寧波は沖のこの列島が防波堤の格好になるのと、大きな川があるのとで良港になっている。その昔、遣唐使が目指した港。今でも中国屈指の貿易港です。問題の畳表もここから輸出されている。

 今度行った臨海・仙居は上虞市から南へ、山に分け入いった土地です。相当南下した(中国の地図には縮尺が載っていないから、何キロ南か分からない。感じで言うと200キロくらい)けれども、それでも浙江省の真中辺の少し東寄りかな。途中の天台山でも寧波よりはずっと南になります。しかし、この地域から福建省まで抜けるには、まだ丸1日走ってもどうかという所。

 鉄道は通っていません。鉄道は杭州から浙江省を縦断する形で、温州へ抜けている。この臨海・仙居よりもっと西を通っています。なお、その温州(温州みかんの故郷)もまだ浙江省です。

 ただ、前のメールでも触れたけれど、山に分け入ると言っても日本と違って、忽ち背稜山脈に突き当たるというわけではない。次々と結構広い盆地や川が現れて、一つ一つが別天地という感じなんですね。こんな土地に攻め入ったって、とてもではないが少ない兵力で完全に制圧することなんてできっこない。それが実感でよく分かります。
長城上り口
 天台山を出てからは、またウツラウツラしていたから、あまり細かな記憶はない。兎に角山に沿ったり川に沿ったりして、上ったり下ったり。かなり走りました。やがて山間の町とはちょっと思えないような大きな市に入った。これが臨海市。古い町並みが残っている狭い道を抜けて、人造湖付きの公園に入ると、正面に長城の上り口があった。オレ見た途端にウンザリしたね。
 
長城俯瞰図
さて、その長城なるもの。おそらく明代のものでしょう。ガイドの説明では、堤防と対倭寇用だったという。この前も触れたと思うけど、海まで40キロある。その頃は海はもっと近かったということなのか。それともこんな奥地まで倭寇が荒らしまわったということか。本当の日本人だけの倭寇てのは少なかったというのが定説。要は海賊防御用ということなんでしょう。他の都市の城壁も本来、攻城野戦の用ではなく、匪賊・夜盗の侵入を防ぐためのものだったというから。

 周囲が6キロという話だったけれど、どうも川に面する部分だけしか無いように見えた。だから、正しくは周囲ではなく、延長6キロかな。川に面している部分だけということは、洪水に対する堤防の役割もあったのではないか。

 上り口は後から観光用に作ったものではないか。石が新しいし、サイズもキチンとしていた。川に面する部分は古い感じだった。倭寇は川から浸入して来ると想定したのでしょう。
 川を下ると台州市で海に出る。昔はこの辺は台州と言ったらしい。天台山は台州の北辺になる。そして、この長城がある臨海が台州の首府だったようです。写真の城門にそう書いた石板が嵌め込んでありました(向かって左の脚の部分)。因みにこの臨海市、今は縫製業とか個人企業が沢山あって、所得水準が高い町という説明でした。元々浙江省全体が軽工業が多くて裕福な土地です。
臨海城門
 上海人の元は寧波人なのだとか。商売がうまい。戦前の話で、浙江財閥ってのが孫文や蒋介石の後盾だった。これは浙江出身者で上海で成功したからその名がある。宋姉妹はその財閥の出身。片方(慶齢)は孫文夫人で、上海に故居址も霊園もある。片方の蒋介石夫人(美齢)の方はない。

>  文化大革命については現在中国ではあまり理解を深める話しを聞くのは難しいようですね。かえって外国に居るほうが はっきりしたことが解るのかもしれない。しかしなんといっても 生の中国人の総括的意見を聞いてみたいものです。

 これは立場によってエラク評価が異なると思いますよ。それと、共産党は公式評価を拒否するでしょう。文革の原因は結局のところ、毛沢東の我侭です。それに触れることは部分的にもせよ、毛澤東の否定につながる。それはなかなか出来ない。また、毛個人に余りにも権力が集中し過ぎていたのが一つの問題点だとして、文革収拾後、共産党は権力の分散を図った。それを強調すればするほど、「それでは一党独裁はどうなの?」という連想を呼ぶことになる。説明が難しくなります。
 
>  仏教についても現在の中国仏教の考え方などあまりわからない。 けっこう中国へ行ってふるい寺やなんかの紹介記事などはあるのに 日本の何宗に相当するものが盛んなのかなどという事もわからない。

 今までに見た限りでは、山門の看板に律宗というのが一度あった。殆どは○○禅寺と書いてある。確か天台山も禅寺と書いてあったような気がする。禅の考え方が日本とは違うのでは。日本では禅宗というと、曹洞(道元)と臨済(榮西)と黄ばく(隠元?)の三宗ということになっていますね。天台宗は違うよね。

> いわんや今の中国人の宗教観なるものも??である。 今でも道教主体の宗教感覚に仏教やキリスト教が乗っかって いるんだろうか。早い話しお葬式はどうやってる?

 葬式に坊さんは呼ばないようですね。今度聞いてみます。丁寧な家では2日くらい楽隊を雇って、表で30分に1回くらいのペースで葬送マーチを奏でています。これは鎮江での実経験です。

 元々中国の仏教は個人の悟りが命題で、従って修行も厳しく僧も禁欲的なようです。寺域が狭いのも権力と結託していなかったことと関係があるのでは? それと、中国人は現世利益追求心が強い。ということは、仏教よりも道教の方が民衆にとって魅力があったということ。寄進も道教の方に弾んだのでは・・・。それに長年、儒教が力を持っていたから、仏教ってそんなに強力ではなかったのではないか。

 以前読んだ加地信行という人の本で中国人の信仰は「魂魄」。どちらかが儒教で、もう片方が仏教の考え方ってのがあったように記憶している。もう一度読まなくては。魄が儒教だったかな。
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